補助輪。
小さな子どもが乗り始めたばかりの自転車につける、アレだ。当然?ながら自分にも、アレ付きの自転車に乗った経験がある。
アレはいい。2つのタイヤだけで走るという、なんとも不安定極まりない(ように見える)乗り物に、アレを取り付けるだけで、不安定さを原因とした転倒をすることはまず間違いなく起きなくなる。まさに虎に翼。
でも当の本人にとっては、すぐに疎ましい存在になる。地面に接するたびにガラガラと大きな音を立てるし、なにより、他の子がそれを付けて走る様を見て、「か、カッコよろしくない...!」と思うようになるからだ。
補助輪は、これでもかとばかりに、その子に "補助輪を付けて走っている" という現実を見せつける。
でも、"その子の成長" を考えたときには、むしろそれが良いのだ、と思う。
それとはつまり、"補助をしている・されていることが目に見える" ということ。もしこれが、"目には見えないけど、抜群の安定性をその自転車に与えます!" というものだったら、どうだろう。確実にその子は、自転車に乗るために必要なバランス感覚を身につけることはないだろう。もしかしたら、バランス感覚だけでなく、それを身に付ける課程で経験するはずのものも、今後一切、経験できないかもしれない。"目に見えない補助輪" は、その子の成長機会を奪う。
"目に見えない補助輪" のような便利なものがあったとしても、また例えそれが、「転ぶと痛いし、可哀想」「怪我でもされたら、病院に連れて行ったりしなきゃいけないし面倒」ということを回避するためのものでも、それを使うことが奪ってしまう可能性も含めて総合的に、判断できるようになるのが良いんだろう。
また、そういったものを使わざるを得ない状況になったとしても、ただ使うのではなく、「自分はこのように考えて、今、このような補助をしてくれる道具を使った」「それを使わなくて済むようになるためには、本来であればこういうことをしなければならない」といったようなことを理解してもらうこともセットである必要があるんだろう。
...といったようなことを、昼食に向かう途中、補助輪付き自転車に乗って遊ぶ子どもを見て思うなどしたので書いてみた。子どもはかわいい。