iPhoneアプリに関する情報を探していたら、その先のブログに気になる記事があったので。
自分がコントロールできない事象を、あたかも制御できていると思い込むことを、コントロール幻想という。 (中略) 基本的にコントロール幻想は、コツがわかってきた中級者、あるいは過剰な成功体験を受けたビギナーが捕われるものとされている。コントロール幻想に捕われた人間は、万能感ゆえに自分に対するはオッズを上げつづける。むろん自分が状況をコントロールしているという実感は、根拠のない幻想である。そのため、最終的には手痛いしっぺ返しを受ける。
僕自身も、「あー、この自信って思い上がりなのかもなー」と、ふと感じてしまうほどの「根拠のない(薄い)自信」に満ち溢れることが、よくある。先日リリースしたCDiTなんかも、「このフリーソフト、バカウケすること間違いないんじゃないの?!」なんてほくそ笑みながら、作っていた(ヤな光景)。これこそ、上述の「コントロール幻想」と呼ばれるものではないかと思う。ただ、そういった“ノリ”のようなものに「コントロール幻想」という名前を付けて、「持つべきものではないもの、恥ずべきもの、見直すべきもの」としてしまうのはどうかな、と思ってしまう。 妄信的にその自信を信じて、そのまま突っ走って、「手痛いしっぺ返し」を受けて、「こんなはずじゃないのに!」と自分以外の対象に非難の矛先を向ける−−−そういったところまでその暴走が行き着いてしまうと、それは見直すべきものだとは思うけど。偶然の産物である「結果」を必然のものと思い込んで暴走してしまう、それを止めるための「キミ、コントロール幻想に取り付かれてるよ」。コントロール幻想というこの言葉は、これから何かをやってみようとする人に冷静さを与えるための言葉には、なっていいとしても、そんな人を思い止まらせる言葉には、なって欲しくない。
またコントロール幻想は、プラシーボと似た効果ももたらす。ゆえにコントロール幻想を煩っているアクティブな馬鹿は、往々にして平均以上の成果を出すのも皮肉な点である。
その自信が幻想だろうが、その結果がプラシーボ効果によるものであって本当の実力によるものではなかろうが、それなりの「結果」が出たのであればそれはそれでいいんじゃないのかな。「いやいや、自分はホント、大した人間じゃないッスから。そんなの、出来っこないですから。」という、“コントロールできる範囲内でしか動けない”人間の、なんとつまらないことか。
「自分は本当はこんなものじゃないんだ」と心の奥底で思い続けながらウジウジするよりも、人生のうち一度や二度は「アクティブな馬鹿」になりきって、やりたいようにやってみたい。その失敗が、取り返しのつかないものでない限りは。その結果、「手痛いしっぺ返し」を受ければ「やはり自分はその程度なのだ」と我に返ることのできる冷静さは、アタマのどこかには常に持ち続けていたいし、また理想とのギャップは実感しつつも、まがりなりにもそれなりの結果が出せたのであれば(今回のぼく)、それを素直に喜べる・祝福できるような人間でありたい。 そんな姿を見て「ははっ、おめでたいヤツ」と笑いたいやつがいるならば、笑わせておけばいい。