ウチのおばあちゃんが、「相田みつを」を好きでして。 実家のトイレに、相田みつをの作品集兼日めくりカレンダーが飾ってあるんですが、その中の1ページに、以下のような趣旨の表現がありました。
『トマトがトマトであるかぎりそれはほんもの トマトをメロンに見せようとするからにせものとなる。』 <<
1ヶ月に一度しか訪れない、このページを見る機会ではあるのですが、なんとなく深く印象に残っているこの言葉。この日のページを見るたびにいろいろ考えさせられてしまいます。
書き手はおそらく、トマトとメロン、全く違うもの同士をむやみに比べるのではなく、それぞれの良さを尊重しなさいよ、みたいなことを言いたいんだと思うのですが、日によって、「あぁそうだよなぁ」と思うときもあれば「う〜ん・・・」と考えてしまうこともあります。 「ほんもの」であることの方が「にせもの」に成り下がることよりも良い、ということは、なんとなくはわかるのですが、そうじゃないときもたまにはあるんじゃないかなぁと思ったりもします。
「ニセモノでもメロンのほうがいい。」と言われたら、どうすればいいんだろう?
僕は今、なんとかトマトであり続けようとしているさなかなのですが、時々すごく不安で、怖くて、「もうニセモノになっちゃってもいいんじゃないだろか」という考えが時々でもよぎる自分がまた、怖い。 むやみやたらにメロンが求められる世の中で、トマトでいよう、あり続けようとすることは、とても難しく、勇気がいることだなぁと思います。だけれども、ただそれだけでは、世の厳しさを知らずただ駄々をこねているだけに過ぎないような気も、する。
トマトがメロンになろうとすると、そこにはそれ相応の犠牲や努力が必要なんだろうけども、トマトがトマトであり続けようとすることにもまた、そのための弛まぬ努力が必要なんだよな。