えいのうにっき

むかしのじぶんのために書いています

「ほぼ日刊イトイ新聞の本」を読んだ。

ちょっと古い本だけれど。この本を読むまでは、僕は「ほぼ日」というものの存在は知ってはいたものの、一つのサイトを定期的にチェックするということをしない(その時その時に話題となっているページを見に行くタイプ)ものだから、「ほぼ日」に対しては「糸井重里がやっている、よくある芸能人公式ブログのようなもの」だというような印象しかありませんでした。今思えばあまりにも酷い思いこみだったなぁと思います。
この本を読んで、僕は一気に「ほぼ日」という「組織・チーム」にホレてしまいました。「ほぼ日」がどういう道を辿って今現在の姿があるかということはもちろんなんですが、その道を「道」たらしめたその考え方、思想がスバラシイ。こんな気持ちになるのは、「『へんな会社』のつくりかた」を読んだとき以来かも。読むページ読むページ、僕の目には眩しい金言だらけのように映ってしまいます。
僕が、この本を読み「ほぼ日」のどんなところに感銘を受けたかを、本来であれば整理してちゃんとした文章として表現したいところなのだけれど、それを100%形にする自信がないので今回は(今回も?)、その「金言」を引用していくことでなんとかその雰囲気をお伝えできればいいなと。

僕がかろうじて前を向いて歩いていける、その心の支えのようなもの。

いつでも、人の暮らしている世の中ってやつは、学者やマーケッターたちが考えるよりも先を行っている。現実にすでに始まっていることや、現実に人々が感じていることを、「研究者」たちがまとめ上げて解説したりすると、その説明を聞いて安心した多くの人々が、あとをついてきて市場は大きくなっていく。ただ、みんなが同じように考えるわけでもないし、世の中の大きな流れになっていないけれど魅力的な考え方があるものだ。

「できるまでやめなければ、できる」

無名でも面白いことを考えたり、面白いことをやっている人は、必ず芽が出てくるものだ。

イデアはどんどん外に出していくことで新しく湧いてくる。

嫌われてもいいから自分独自のものを出していくことでいままでになかった新たな感動が生まれる。

古い職人的な考え方かもしれないけれど、「思いっきり仕事がしたい」という欲望は、実力のある人ほど強く持っている。

・・・こういった考え方は、それを笠に着るのではなく、心の支え、程度には持っておきたいな、と思います。

僕がやっていきたいこと、出来たらどんなにか嬉しいであろうこと。

自分でイニシアティブを握って行う仕事には、真の喜びや楽しさがある。実現させるための労力を惜しまないだけ、これ以上はないというくらいの達成感が味わえる。

人間は経済活動だけで動くものではない、損得だけで動くものでもない。身銭を切ってでも何かをしなければいけない、何かをしたいというものを、みんな持っているんだな

(例えば「ピカソ春画」などを、ある種の「まかないめし」のようなものだと表現した上で、)まかないめしの中には、自分のほんとにやりたいことや、実力というようなものが秘められているのだ

なにか「面白いこと」にぶつかりたくて

自分の生活をちゃんと自分のものにしたいという欲求

・・・そのいいところばかりにしか、目が向いていないような気もするけれど。それに向かって伸ばそうとしている手を引っ込めるのは、実際にやってしまってからでもいいんじゃないか、と思えるようになった。かな。

今僕が感じている漠然とした不安・不満に近いと思えること。

イデアを活かしてクリエイティブ仕事をして生きていくには、ぼくくらいの歳になってくると、引退するか、威張るかの道しか残されていないのか。

自分の過去が「たいしたもの」だと思いたくなるような気持ちがちょっとでもあったら、前に進むためにじゃまになると考えていた。

間違いなく誰でもが大量につくれるものが、ぼくらのつくる商品ではない。まちがいなく同じことをしているのは罪である。

「成功に見える失敗」

「管理の得意な人たちが主導権を握る大企業になったら、おもしろくない」

他人の思惑に自分の人生が左右されていくという予感は、どうにも耐えられないものだった

・・・せめて、その「他人」は選びたいなぁ。

一般的に「正解」とされていることでも、それが自分に対しても「正解」であるかどうかは、わからないもんね。

「これからのインターネット」の可能性、「インターネット」の在り方についての、糸井さんの表現。

遊びか仕事かという区別のつかない楽しさで何かをつくっていくことが、インターネットなら可能かもしれない。

これからの世の中は、放課後と退社後のパワーが動かしていくのだと思っています。

「インターネットは生き方である」

・・・至言!!

テレビ、新聞、雑誌、ラジオ、インターネットというように、さまざまなメディアが、意外に自分の世界以外を見ないで成り立ってきた。ぼくは、このあんまりかわいくない垣根を取り払うのにいちばん働くのが、インターネットだと思っている。

消費者の心をつかむには、お客さんのよろこびや不満などと共感できる情熱が絶対に必要なのだ。(中略)いまやネット上には膨大な数のeビジネスのサイトがあるが、どれもパッとしないのは消費者の感情をきちんと受けとめようという意識がないからだ。

・・・日経広告局・Sさんの言葉であるという、「真の『IT革命』とはそこに携わる者の情熱的な理念によってのみ実現可能である」という言葉も、素晴らしい。
インターネットが万能である、とはいわないけれど、掘り起こされるのを待っている「何か」が、まだまだあるような気がする。

はてな」や任天堂と似てるなぁ、というところ。

わからないことをわかるまで考えても、前に進まないから、これはやりながら考えようという気持ちだった。

ぼくらは「必要でないもの」を配れる楽しみを持っていたい。

「まず、やってしまう」ことで、さまざまな欠点や足りない部分があぶりだされていくし、うまくいったケースに追従する人たちも出てくるから、やらないで時を待っているよりも、始めてしまったほうがきっといいのだ。

(「ほぼ日」を振り返ってみたとき、)「何をやれるのか誰にも見当がつかない」メディアに成長している

(「ほぼ日」の黎明期に感じていたものについて、)スポーツの偶然性が人をよろこばせるのと同じで、「先がわからないまま全力を尽くす」という面白さだった

似るもんなんだなぁ。他にもないかな?こういうところ。

いいなぁこういう考え方。っていうもの。

「うちら『ほぼ』日刊ですから」という「こころのゆとり」のようなものを残しておきたかったのだ。

(いろんな人に「ほぼ日」への執筆依頼をするにあたって、)断られても「それが当たり前なんだ」と、ぼくは思っていなくてはいけない。いくらこちらに情熱があったとしても、それは相手にはなんの関係もないことだ。相手には相手の、別の情熱があるだろうし、ぼくとは違った優先順位で動いている。そのことだけは、いつもぼくらは肝に銘じておかなくてはいけない。

うんうん。僕もそれなりに信念というか、思うところがあって今やってるようなことに取り組んでいるけれど、「そのことに自信・誇りを持つこと」と、「それを相手にわからせる・相手にとっても同等の価値があるかどうか」ということは、違うもんね。

なにもかも万全などということはない、と決めることが大事だ。上役のハンコが必要なわけではないのだから、ひとつひとつ、正しかろうが間違っていようが決めていかなくては一歩も前に進まないのだ。

マジメはよいが、マジメになりすぎるのはよくない。マジメでない人を責めたくなったりするからだ。

何かの飛躍というのは、遊びの時間がなくては生まれないものだ。

身を投じてみたい、こういう環境。

話し合いの中で、企画が変化していくのは大歓迎だ。(中略)なんども同じことをしゃべっているうちに、考え方の中の足りない部分がはっきりしてくる。

「やれるかもしれない、やってみたい」ということを、「やれるようにしよう、そのためにはどうすればいいか」に変換することこそが、「ほぼ日」の仕事だ。

一人ひとりの強さ弱さを、チームとしての強さ弱さにまで持っていけたら、やれることのスケールがぐんと大きくなるだろう。

思いの外、今の僕は孤立してるなぁと(ヘンに客観的に)感じました。

集まる人の多い場というのは、ある意味で少数を相手にする表現の可能性も大きくするということでもある

引用おわり。さいごに。

糸井さんはこの本の中で、「これからは、『幸福観』を選び合う時代なんだと思う」としています。それはどういうものかという例として、“「あの会社の『幸福観』が好きだから、私はこのクルマに乗るのよ」というようなことだ”と書いておられます。
なんだかんだ難しいことを言ってみても、これに尽きるのかなと。僕も思う、「幸福になりたい」、「幸福観を共有したい」。それは人によって、自らの手で力の限り手繰り寄せないと近づけないものだったり、またその課程にも(もしくは課程そのものだけに)「幸福」の一部を見出している人もいるんだろうなと思います。良きにつけ、悪きにつけ。
目映いばかりの幸福観を持つ糸井さんを遠くに臨みつつ、「笑いながら一歩ずつ進んでいく、やっと歩けるようになった赤ん坊」のように、僕なりの「幸福観」を追い求めたいと思います。少しばかり出遅れているような気がするけれど、それでも、「何かができるような気がする」んだもの。

ここまで書き終わって、追記。

“「はてな」や任天堂と似てるなぁ”という小見出しで一つのセンテンスを書きましたが、それを書きながら、どこかしら僕は、「はてな」(特に最近の)と「ほぼ日」(この本で得たイメージ)を同列に扱うことに対して何とも言えない違和感を感じていたことを、押し込めていたように思います。・・・そんな自分に、『「はてなの有料サービス」の利用を中止した理由 − どんなジレンマ』のエントリを読んで気付かされました。(こちらに限らず、全体的な空気・雰囲気もそんな感じになってますよね、最近)
僕は「はてな」が好きです。それ故に、無意識のうちに押し込めていたその違和感は、でもやっぱり無視できないです。本当に好きだってことは、盲目的に相手を受け入れることとは違いますもんね。
既に立派な「公器」になってしまったがゆえに、おおっぴらに色んなことを表に出せない部分もあるんでしょうが・・・、、はてなの目指す「幸福観」は、今あるようなものなんでしょうか。それとも、最終的に目指すところの「幸福」に行き着くための、痛みを伴うステップの一つなんでしょうか。



もしかしたら今、「はてな」は非常に厳しい状況に立たされているのかもしれないなぁ。



ほぼ日刊イトイ新聞の本 (講談社文庫)

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「へんな会社」のつくり方 (NT2X)

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