えいのうにっき

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明日の自分は、明るいか?

最近、といってももうここ一年か二年くらいずっとそうなのだけど、五年後の自分に対して明るい展望を抱けない。今の仕事を続けた延長線上にある五年後の自分の姿が、良いものであるとイメージできない。

五年後の自分、五年前の自分 − 刺身☆ブーメランのはてなダイアリー

共感できるところ・・・というか、思うところが多かったので、自分の気持ちを整理するつもりで書いてみる。。



五年前の自分が五年後の自分に対して抱いていたイメージは、もっと明るかった。根拠は何もないけれど、何かすごいことをして有名になっている、みたいな、幼稚だけど明るくてパワフルな未来像を描けていた。その未来への無根拠な自信が、明日への一歩を力強く踏みしめる力の源になっていたように思う。

思わず、読みながら力強く頷いてしまった。ただ、僕の場合は「今もそのイメージは、依然として明るい。」という表現になるかもしれない。以前コントロール幻想について書いたけれど、周りからみたら、僕はその幻想に囚われているように見えるかもしれない。

いま自分が置かれている環境は、決して不遇ではないと、理屈ではわかる。むしろ恵まれているほうなのだと。でも、仕事が楽しいですか?と聞かれたら即答で No だ。力一杯「つまんないです」と言えてしまう。いや力一杯は嘘だ、脱力しきっているから。こういうのは理屈じゃないので、楽しくないものは楽しくないわけで、年齢もそろそろ30歳で、「つまんないから辞める、楽しいことしかやらない」では通らなくなってくるのは理屈ではわかってるんだけど、しかしいくら理屈がわかっていてもつまらんことが楽しくはならない。

ここの部分は、僕は似てるようで、ちょっと違うかもしれない。仕事は、実は楽しいときも結構あったりする。夢中になりすぎて時間の経つのを忘れてしまうことが、ままある。だから、「仕事、楽しいですか?」と聞かれて、“即答で、力一杯に No と”は、僕は言えないと思う。
ただ、今感じているのは、「今以上に、力一杯“仕事、楽しいです!”と言える環境が、他にあるんじゃないか」っていうことと、「この先、この環境で、いつまで“仕事、楽しいです!”と言えるだろうか?(自分もこういう人になりたい、と思える人がこの環境にいないなぁ)」ということ。「いつかは、望まない仕事をやらなくちゃいけなくなる」ということを、僕はどうしても、呑むことができない。もちろん、今の環境に安住しようとするならばそういうことも必要かもしれないけれど、じゃぁどこもかしこもそういう環境なんだろうかって考えると、「必ずしもそうじゃないんじゃないか??」と思えて仕方がない僕がいる。

しかし「じゃあ、俺がいま楽しいと思える仕事って何よ?」と自問してみると、思いつかないんだなこれが。この、何なら自分は楽しいと思えるのか、を言えなくなってしまったのが非常にまずいと感じる。将来こうありたい、こうあるべし、という指標を見失ってしまったということだ。目指すものがなければ人生なんてまさにその日暮らし、食うために金を稼ぎ続けるだけで、何の意義も楽しみもなくなってしまう。ダサイ言葉を使うなら「なりたい自分」だ。

これって、もちろん本当に(楽しいと思える仕事が)何もない場合もあると思うけど、よく言われるじゃないですか、「自分のことって、自分が一番わかっているようで実はわかってない」、みたいなこと。感覚的・感情的には、確かに“それ”はあるのに、不意に「じゃぁそれは何?!」と言われても、言葉として出すことができない、というような。
僕って、ちょっと(かなり?)イタいところがあって。僕は、「自分」というものがどういうものかを明示的に知りたいがあまりに、『これ、自分のことをある側面で端的に表現できているな』と感じた事柄(表現だったり性向だったり)は、即時にメモするようなクセが付いてしまっていたりします。きっとその表現の断片の寄せ集めの先に、おぼろげながらにでも、うっすらと見えてくる「自分」があるような気がして仕方がなくって。
・・・「自分」のことを尋ねられたときに、どんな答えにしろキッパリと答えることができないのって、何度も経験がありますが、バツが悪いんですよね。。(うまく伝えようとしすぎてるんだろうか??)

どこでどんな仕事をしていても何らかの不満は常にあるもので、それは仕方ないことだと思うが、「なりたい自分」がなくなってしまうのはとてもまずい。何故そんなことになってしまったのだろう。環境が変わったのか、自分が変わったのか。両方あるんだろう。環境を変えるか自分を変えるかすれば、また以前のような良い流れに乗れるだろうか。どっちを変えるのもなかなか難儀だなぁ。歳をとればとるほど変えづらくなるし。

世の中には、「そう、これが俺の“なりたい自分”なんだ」と、自分で気がつかないレベルで言い聞かせているような人も多分にいるんじゃないかとは思います。だけど僕は、例えそんなでも(思い込みでも)いいから、「なりたい自分」になろうという意識は常に持ちながら、何らかの動きは取り続けていたい・・・なぁ。
目の前の選択肢に対しては、常に能動的に選択をしていきたいし、どんどん新たな選択肢を模索することもしていきたい。そういったことに非能動的になってしまうクセみたいなものってのは、常に意識して「何か」になろうとしていないと簡単に身に付いてしまうんだろうなぁということは、なんとなくだけど、わかる。

現状に不満があるから他所へ行く、ではジョブホッパーになってしまうので、軽はずみに決断してはいけない。でも、自分が得るものがない場所にとどまっていたら自分の価値は下がっていくばかりで、結局は何年後かに、もう取り返しがつかなくなった頃にお払い箱にされて路頭に迷う。そうなってからでは遅いから、動けるうちに動いておきたい。

自分で意識して行動することができているのなら、その行動の結果が例えジョブホッパーであったとしても、それはそれで全然構わないんじゃないか、とすら思えてしまう僕は、やはり何かに毒されているのかもしれない。今より状況が悪くなることが、全然怖くない。たとえ後々痛い目に遭おうとも、そこに至る過程が自分の納得の行くものであれば。その行動に纏わる責任が、自分のコントロールできる範囲内のものである限りは。(例えば、守るべき家族がいる、等といった場合は難しいだろうなぁと、一生懸命想像してみたりする。)




以下の2エントリも、全く無関係ではない気がするのでメモっときます。


自己実現をはかれる人の7つのチェックポイント − ハックルベリーに会いに行く
僕が仕事を辞める勇気を持てた理由 − phaのニート日記